[その1]学校教育の弊害


僕達は、学校教育で右へならえのような「みんなと同じ」ことをする教育を受けてきました。

 

それは、軍隊の流れそのままに、上からの命令に忠実に
従わせることで、先生が一律的に管理がやりやすく、大企業に就職させることがメインとして
考えられてきた教育方法です。

 

僕は、27歳の時、医師になろうと、試しに大学入試のセンター試験を受けたことがあります。
その時、半年かけて、中学生レベルから学校教育というものを振り返って勉強しました。

 

結果は、7割程度の惨敗でしたが、かなり、色々なことがわかってきました。

 

学問だけなら、「記憶力」と「理解力」のみあれば、東大でもいけます

 

社会に出てから本当に大切な人のしてもチカラである、笑顔や陽気さ、生活力やコミュニケーション力、
分析力や伝達力、マネジメントやリーダーシップなど欠片もなくても良いのです。

 

確かに、「記憶力」と「理解力」は大事です。

 

人の顔や名前、企業の名前などを覚えたり、相手の言っている事が容易に理解できることは、大切なことです。

 

けれども、それは、ほんの数分の1でしかないのです。

 

社会に出てからは、全く異なる「チカラ」が試されるのです。

 

本来、学校教育では、その「チカラ」こそを教育していく場であるべきです。

 

社会に出てから、その「チカラ」の存在に気がついて、自分で学んできた人は大きく成長して
社会を引っ張っていく立場に立っています。

 

僕の周りには、中卒から東大卒までいますが、中卒の彼はその「チカラ」に気がついて、
ビジネスオーナーになり、
東大卒の彼は、その「チカラ」には気が付かず、大企業に勤めています。

 

東大卒の友人に比べて、中卒のビジネスオーナーの友人は、年収は3倍にもなります。

 

もちろん、東大卒でビジネスオーナーをやっている友人もいて、学歴が良くて、ビジネスが
できることに越したことはありませんが、非常に遠回りで、ムダなことをしてしまう傾向が強く出ています。

 

という僕も理系の大学院卒ですが、根本の考え方に学校教育で受けたマインドセットが染み付いて、
今でもそれと戦うときがあります。

 

 

学校教育は、だいたい小学校高学年から「迷い」が出てくる

 

幼児期の学校教育は、教えるべきことがハッキリしているので、学校教育は充実して
非常に有意義で大事なものになっています。

 

ひらがな、カタカナ、算数、名称、場所、色や形、、、

 

どれも生活に欠かせないもので、それを教える場としては、とても良い場になっています。

 

高学年になると、掛け算、割り算も未知数もわかるようになり、漢字も読み書きでき、
大人が理解していることはだいたい理解できるようになります。

 

この小学校高学年や中学1年あたりから、「教えるべきこと」に「迷い」が生じてきて、
何を教えていいのかわからなくなっているといっても過言ではないと思います。

 

本来、「教える」ためには、「目的」が必要になります。

 

何のための国語か?
何のための数学か?
何のための理科か?

 

幼い低学年なら、本能的に、「読み書きそろばん」の大切さを認識して、興味を持って
取り組むことができるのですが、それらが習得できるようになると、「目的」である、何のための
に学習しているのか、ということが必要になってきます。

 

ここが、勉強嫌いになる原因の一つだと思っています。

 

目的がハッキリしないのに、ただ大人や先生が大切だからと教えていく。

 

ここで勉強嫌いになる子のほうが、本来の生きるチカラをつけるという意味では、正しいのかも知れません。

 

何のための教育か?

 

それを教える大人や先生が、それを見失っているのです。

 

考えたとしても、どうしようもない壁があり、思考停止にならざるおえないのです。

 

 

 

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